「奇妙なトンネル効果」とは?
物質を構成する原子や電子のような非常に小さな粒子(ミクロな粒子)は、量子力学という法則に従って運動します。この世界では、粒子が壁にぶつかったとき、たとえその壁を乗り越えるエネルギーがなくても、一定の確率で壁をすり抜ける現象が起こります。これが「トンネル効果」です。通常、粒子のエネルギーが低いほど、壁をすり抜ける確率は非常に小さくなります。
しかし、今回実証された「異常トンネル効果」はこれとは逆の、まさに「奇妙な」現象です。極低温に冷やされた中性原子気体(レーザー冷却と蒸発冷却により絶対温度100ナノケルビン以下に冷却された原子の気体)でできた「ボース・アインシュタイン凝縮体(BEC)」(多数のボース粒子が特定の量子状態を同時に占める、マクロな物質波として振る舞う特殊な状態)の中を伝わる音波は、エネルギーが低いほど壁をすり抜けやすくなり、エネルギーがゼロに近づくと100%壁を通り抜けることが予測されていました。
この異常トンネル効果は、磁石などの他の物質でも起こると考えられており、その影響を実験で観測できたことは、物理学における普遍的な現象の解明に大きく貢献するものです。
20年来の課題をクラウド技術が解決
段下教授は、学生時代からこの異常トンネル効果を理論的に研究していましたが、その実験による実証は20年以上も実現していませんでした。現代の物理学研究では、理論を専門とする研究者と、実験を専門とする研究者との分化が進んでいます。最先端の実験装置を自力で立ち上げて成果を得るには非常に高い技術が必要で、理論研究者が自らの理論を実験で検証することは極めて困難な状況でした。
このような課題を解決する手段として、近年注目されているのが、最先端の実験装置をオンラインで利用できるクラウドサービスです。IBM社やGoogle社が提供する量子コンピュータのクラウドサービスがその代表例ですが、米Infleqtion社の「Oqtant」もその一つです。Oqtantは、真空中にレーザー光と磁場を組み合わせて原子の気体を捕まえ、冷却・操作することで、その運動を詳細に調べることができるサービスです。
段下教授は、2020年にOqtantの提供が開始されたことを受け、これを使えば異常トンネル効果の検証実験ができると考え、研究を開始しました。
クラウドで実現した画期的な実験実証
研究グループはまず、理論計算によって、二つの「井戸」のようなポテンシャル(「二重井戸型ポテンシャル」と呼ばれる、お椀型のポテンシャルの中央に障壁を加えることで原子を溜める井戸が二つできる状態)に閉じ込められたBECが、中央の壁を挟んでどのように振動するかを予測しました。そして、このBECの振動運動の周期が、異常トンネル効果を間接的に反映することを発見しました。
次に、Oqtantを使って二重井戸型ポテンシャル中のBECの振動運動を実際に観測し、さまざまな高さの壁に対する振動の周期を測定しました。この実験結果が理論計算と見事に一致したことから、20年来未解決だった異常トンネル効果の影響を、間接的にではありますが、世界で初めて実験で観測することに成功したのです。
物理学研究の未来を拓く新手法
今回の研究成果は、単に異常トンネル効果を実証しただけでなく、理論研究者がクラウドサービスを通じて遠隔で実験装置を操作し、自らの理論予測を検証できるという、新たな研究スタイルを提示しました。これは、これまで実験が困難だった多くの理論的予測の検証を加速させ、物理学研究のあり方を大きく変える可能性を秘めています。
また、異常トンネル効果はBECだけでなく、磁石などの幅広い物質で起こる普遍的な現象であることが示唆されています。今回のクラウドサービスによる最初の実験的観測は、今後、他の最先端実験設備のクラウド化を強力に推進し、新たな物質科学や量子技術の発展に繋がるかもしれません。
研究者のコメント
近畿大学の段下一平教授は、「理論研究者として、面白い理論的予言であっても実験で検証できていないものが多くありました。Oqtantのおかげで、その一つを実験検証できました。今後もクラウドサービスを利用して、積極的に実験研究も実施していきたい」とコメントしています。
中央大学の鏡原大地助教は、「クラウド経由の実験プラットフォームを用いることで、理論的に予想されていた現象の検証をする実験研究を行うことができました。このような新しい研究基盤を積極的に活用していきたい」と語りました。
米国Infleqtion社の応用量子センシング担当部長、Noah J. Fitch氏は、「当社の使命の一つは、量子に関する研究と技術へのアクセスを広げることです。今回の研究は、遠隔アクセスモデルが地上で何をもたらすかを示しています。私たちはどこからでも『量子』にアクセスできるのです」と、今回の成果の意義を強調しました。
本研究は、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)などの支援を受けて実施されました。
論文情報
本件に関する論文は、令和8年(2026年)7月31日に、物理科学の国際的な学術雑誌”Communications Physics”に掲載されました。
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掲載誌: Communications Physics(インパクトファクター:5.8@2024)
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論文名: Observation of the influence of anomalous tunneling on collective excitations via a cloud experiment platform for Bose-Einstein condensates
(ボース・アインシュタイン凝縮体用クラウド実験プラットフォームを通じた、集団励起における異常トンネル効果の影響の観測) -
DOI: 10.1038/s42005-026-02720-6



